弘前学院と宣教師館の歴史

弘前学院と宣教師館の歴史

弘前学院の前身となる来徳女学校の開設から昭和の終戦まで
1886 年
弘前学院の前身となる来徳女学校を開設

弘前メソジスト教会の牧師・本多庸一により、函館遺愛女学校の分校として、弘前教会内に弘前学院の前身となる来徳女学校を開設する。翌年、弘前遺愛女学校となる。

1888 年
塩分町に校長住宅として民家を購入

元大工町に本校舎の建築着工にあたり、校主長谷川誠三が道一つ隔てた塩分町に校長住宅として1軒の民家を購入、婦人宣教師宅として利用される。

1889 年
坂本町へ新校舎新築着工、私立弘前女学校を開校

元大工町から坂本町へ校舎を新築着工する。校主長谷川誠三と婦人外国伝道協会との間に互約書が交換される。知事鍋島幹より設立許可を得て、私立弘前女学校を開校する。

1901 年
坂本町へ新校舎移転、婦人宣教師による宣教師館の建設を働きかけ

元大工町より坂本町新校舎への本校舎移転にあわせて、元大工町の宿舎から坂本町の本校舎へ通っていた婦人宣教師たちが宣教師館の建築を働きかける。

1906 年
宣教師館の竣工と保存登記

宣教師館が坂本町(中瓦ヶ町)に竣工し、社団法人WFMS所有として保存登記が行われる。
米国美以派婦人伝道協会

婦人宣教師たちの宿舎となった宣教師館

太平洋戦争の悪化により、外国人宣教師が自国へ引き上げるまで婦人宣教師たちの宿舎として利用された。

1919 年
校名を弘前女学校に改称

校名を私立弘前女学校から弘前女学校へと改称する。

1941 年
外人宣教師が自国へ引き上げ

戦争の悪化により、外人宣教師が自国に引き上げ、宣教師館から外人宣教師の姿が消える。

1944 年
宣教師館の内部改装

理事会の決定により、宣教師館内部を割烹室に改装する。1階は、書斎・食堂・階段室・厨房・浴室の間仕切りを撤去し、割烹室とする(暖炉・煙突も撤去したと思われる)。2階は物置2室の間仕切りを撤去し、物置2室と階段室を1室にする改装が行われる。

昭和の終戦後から弘前学院資料館となるまで
1946 年
弘前聖愛高等女学校に改称

校名を弘前聖愛高等女学校と改称し、五年制度を復活させる。

1947 年
婦人宣教師の再着任

戦後間もなく婦人宣教師2名が着任して、宣教師館に入居することとなり、しばらくぶりで本来の姿をとりもどした。2階東側に浴室を新設する。

1948 年
弘前聖愛高等学校の開校

新制高等学校発足により、弘前学院聖愛高等女学校の名称が廃止され、弘前聖愛高等学校、弘前聖愛中学校となる。

1950 年
学校法人弘前学院が発足

法人名を弘前学院と改め、校名を弘前学院短期大学、弘前学院聖愛高等学校、弘前学院聖愛中学校とする。

1961 年
短期大学新校舎が北瓦ヶ町に新築完成
1968 年
宣教師館としての使用を終了
1969 年
大学学生寮として使用される

大学学生寮として使用されたため、1階割烹室の一部を洗面室に、2階は北側の旧物置・旧階段室の1室を2室の寮室にし、ベランダは西から2間の位置に引違い板戸で仕切られる。

1970 年
大学校舎が新築完成

4年制大学の校舎が稔町13-1(現在地)に新築完成する。

1971 年
弘前学院大学開学

文学部に英米文学科と日本文学科の2学科を開設する。

1972 年
高校の食堂として利用

割烹室の厨房以外の部分が高校の食堂として利用される。(~73)

1978 年
国重要文化財の指定を受ける

坂本町から稔町(現在地:弘前学院大学キャンパス)へ移築工事が行われる。(~79)

1990 年
学校法人本部として使用

法人本部事務局の執務室として利用される。

2004 年
弘前学院資料館とする

創立以来の史料の一部及び弘前大学名誉教授である相澤文蔵氏のご遺族より寄贈された書籍を「相澤文庫」として収蔵している。

弘前学院外人宣教師館(弘前学院資料館)